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炊き出しボランティアの仲間に、
お尻の形が妙にカッコいいオッチャンがいる。
仕事の合間に炊き出し。
週末はホスピス。
災害が起きれば、有給を取って現地へ向かう。
静かで、目立たなくて、
でも確実に「他人のために時間を使っている人」だ。
炊き出しが終わり、
並んで歩きながら他愛のない話をする。
その時間が、私は好きだった。
ある日、ふいに聞かれた。
「時間って、何だと思う?」
……答えに詰まる。
掛け替えのないもの。
大切なもの。
限りあるもの。
どれも間違っていない。
でも、どれも薄かった。
オッチャンは少し間を置いて、言った。
「時間はな、命やで」
その一言で、
胸の奥にストンと落ちるものがあった。
そうだ。
3分でも、1時間でも、
私が使った時間は、
もう二度と戻らない“私の命”だ。
そして――
誰かと一緒に過ごすということは、
相手の命を、少し分けてもらっているということだ。
軽く扱っていいはずがない。
惰性の会話。
なんとなくの付き合い。
流し見する画面。
それらは全部、
誰かの命を雑に使っている行為かもしれない。
「だから、大切にせなアカンよな」
その言葉が、
今も私の中に残っている。
釜ヶ崎は、
生き方を誤魔化させてくれない場所だ。
「時間は、命そのもの」
この言葉を知ってから、
私は人と過ごす時間を、
前より少しだけ、真剣に選ぶようになった。
今日、
あなたは誰の命を、どう使いましたか。
